演劇について〜ダランベールへの手紙〜(ジャック・ルソー)書評

【演劇、または現代の娯楽一般について】

仮にこの「手紙」を、思想の巨人、ジャック・ルソーが書いたものだと知らずに読んだとしたら、私はどんな感想を持ったのだろう。この本を読み終えた時に最初に考えたのはそういうことだった。本書は地に足をつけた論理展開を追わせてくれる類の本では無く、直感的で、議論の所々に飛躍を感じる本であったという印象だ。特に言葉遣いが印象的で、「〜をごらんなさい」というような表現が多用されており、物事を「直」に「観」れば、その本質を理解することができるという直観主義を強く感じさせる。論理展開も、緻密に構築されたものとは言えず、偏った考えを排除して、客観的かつ現実的に書かれているとは言い難いかもしれない。

しかし他方で、演劇と芝居について、現代ではもう少し射程を広げて、TVドラマや映画、アニメなども含めた「受動的で消費的な娯楽一般」について、良い示唆を与えてくれる本でもあった。訳者が冒頭のはしがきで解説している目次の、「劇そのものが与える道徳的効果について」の項がそれにあたる。そこで述べられていることは要約するとこうだ。

喜劇と悲劇は、実際の人間よりも拡大された、または縮小された人間を見せる。喜劇では正直者は滑稽に描かれ、悲劇では現実にはありえないような英雄的な人間が登場し、彼に憐れみを感じさせられる。そのため現実の正直者は嘲られ、現実に存在する憐れみを向けるべき人々にそれは向けられなくなる。その娯楽は人々の関心を引きつけすぎるあまり、仕事にも悪影響を与える。今ある仲間同士の集まりも、それほど熱心に行われなくなる。そもそも演劇というものは客を惹きつけるかどうかこそが問題なのであって、習俗を正したり、徳を教えたりすることは目指しておらず、故にそれは達成されない。そこにある民衆を惹きつけるためだけに作られた演劇は、当然今ある習俗に(幾らか変質させるにしても)、沿うことになるのだから、すでにある習俗を助長させるまでにとどまり、やはり習俗を正したりすることはない。よって演劇とは、よい習俗がある民衆にとってはよく、そうではない民衆にとっては悪いものになりうるのだ。

このルソーの観察が、演劇というものの本質を一面捉えているとするならば、現代の「受動的で消費的な娯楽一般」の本質の一面もまた捉えていると言えそうだ。こういう目で、現代の娯楽を観察してみるのも面白い。現代は、これが書かれた18世紀中頃よりも、そうした娯楽の商業主義は発達し、我々消費者の関心をどのようにすれば惹きつけられるのかということが、かなりシステマティックに解明されている。加えて、デジタル技術の発達により、距離と時間を問題にせず、それにいつでも触れることができる。コンテンツ同士の競争も激しいので、より強い刺激が追求される。ルソーが言うように、現代の娯楽を、仕事や愛、仲間など人生の諸目的に対しての毒にならないよう取り扱うためには、一層の警戒と自衛が求められる時代であるのではないか。

ルソーは演劇をジュネーブへ持ち込む代わりに、祭りや催し事を充実させるべきとしているが、現代においてそれはあまり有効な策になりえない。人々は祭りにそれほど関心が無いように見えるし、それが充分行われていないとも思わない。祭り自体が、コンテンツベースで分断され、選択肢が多様である。これは彼が言う祭りの要件を満たしているとは言い難い。ではどんな娯楽によって、現代人は健全に満たされるべきなのか。私が直感的かつ暫定的に考えるのは、「受動的で消費的な娯楽」ではなく、「生産的で能動的な娯楽」によってである。例えば、鑑賞よりも、創作という事である。今回のように本を読んで、その感想をこのようにまとまった形として表現することも、それと言えるかもしれない。この「現代における健全な娯楽のあり方」というトピックは、議論の内(第5回大人も読書感想文会)に取り上げてみたいと思う。(文責:イズミコウ)

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